死は結局、分からない。だからこそ信仰がある

講演日: 2016年 09月20日
    講演者: 
  • 院首 及川真介 上人

 台風がまた、近づいてきているようです。
 お天気のあまりよくないなか、今回も本当に多くの方がお越しくださいました。誠にありがとうございます。

 さて、「死」をテーマに話してきたわけですけれども…振り返ってみれば、回を重ねるたびに、「生きる」ということを一生懸命話し、さっぱり「死ぬ」方に近づいていかないんですね。なんてったって、話している私自身が経験したことがない。一回やっちゃえば、あーだこーだ言えますがね…。

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 ですから今回はまず、私の人生の先輩方の臨終のことを、少し振り返ってみたいと思います。
 私は父方の祖父母の臨終に立ち会いました。また、私の実母は44歳の若さで亡くなりましたが、亡くなるときに私は立ち合っています。また、おやじも自坊の2階で亡くなりました。そのときも、誠に偶然にも私がおりました。

 当時私は、めったに寄り付かなかったんですけどね…何故か分からないけれど、その晩にかぎって夜の番人をしてやろうと思った。下の娘が「お父さん、私もついているよ」と言ってくれたので、「2人で眺めていよう」という具合でそばにいたんです。すると、その晩に亡くなったんですね。このように、今まで何人かの身内の臨終に立ち合わせておりますが……みんないい姿というか、静かに安らかに息をひきとったように思います。

 死ぬということは、わりと安らかにいくということもある。だからみなさんも…きっと大丈夫ですよ。

 ところが、病院へ行くとなると……決してそうはいかない。檀家さんの中には、集中治療室に入り、裸で身体中管を付けられ、全身を押されながら亡くなっていった方もいました。どちらがいいのかは、分かりません。
 ただ、死ぬということはそれだけ大変で、誰も分からないだけに、難しいんですね。

「人は、生まれ変わる」
2千年もの言い伝え。

 私は60年ぐらい坊主をやっていて、今までに3千人近い方をあの世へ送り出しました。
 お葬式の時に「引導文」というものを読みます。これは、亡くなった方に向けての言葉で、日蓮聖人のおっしゃったことです。

 亡くなった方が、三途の川の前で「私は日蓮の弟子だ」と名乗れば、お経が船に変わる。険しい山では白い牛が大きな車を引いてくれる。それに乗っていけばいい、と。
 また、冥土という真っ暗闇では、お経がランプになってくれる。法華経は何にでも変われる、自由自在なんですね。

 インドのラージギルというところに、霊鷲山(りょうじゅせん)という山があります。岩だらけの小さな山で、東京の高尾山よりも低いぐらいのところですが、そこが法華経の説かれた場所、原点といわれています。私も行ったことがあります。

 今から2500年も前にすでに、お釈迦様の教えがその場所から言い伝えられました。そのころの日本は縄文時代、穴ぐらに住んでいた頃ですよ。そんな昔から、インドでは文明が発達し、文字ができて文章で伝えられていたんです。ヤシの葉に鉄筆でキズを付けて墨の粉をふりかけると文字が浮きでてくる。そうして書かれたお経が、今もスリランカやミャンマーのお寺には残されています。

 書かれている話の中心は、死ぬということ、死んだ後どうなるのか、ということです。簡単にいうと、「死んだ後は、生まれ変わる」と書かれているんですね。

 現代人の私たちは、科学の考え方が中心にとなっているので、「死んだら灰になっておしまいだよ」と考えます。でも昔の人は、「来世はある」とずっと信じてきました。

 「灰になっておしまいではない、みんな私のところに来るんだ」と日蓮聖人は言います。
 でも実際のところは日蓮聖人も、証明したわけではない。証明はできない。

 では何故そう思ったか? 信仰したからです。お釈迦様のいうことを信じたわけです。
 信じると、功徳がある。安らかになる。気分が落ち着く。気持ちが静かになる。だから人は、信じるのでしょう。

 信仰がないと、あーだこーだ考えて、気持ちがぐらぐらしてしまう。不安が増す。だからこそ、信仰があるのだと思います。
 人と人との信頼関係も、同じです。

 原始仏教を60年以上も勉強してきて、私は何が、分かったか?
 煎じ詰めれば――「信仰よりほかない」、ということなのです。

人生を1mに例えて。
今を自覚し、生きる。

 ではなぜ、当時の人々はお釈迦様を信頼したのでしょう? 調べてみると、お釈迦様には神通力が備わっていたといわれています。悟りを開くと同時に、超人的なパワーつまり、普通の人にない力を持っていたんですね。

 例えば、過去のことが全部分かる。未来のことも、分かる。これからどうなるのか? 死んでどこかで生まれ変わるのか? すべて見える。空を飛ぶこともできたといわれています。人々は驚いて、「この人の言うことなら」と信頼して弟子になっていったんですね。

 弟子の中にも、すごい神通力を持った人物がいました。そういう者とは神通力ごっこのようなことをしたそうです。そしてお釈迦様が勝ち、またいっぺんに何千人もの人を弟子にする。そうやってだんだんと勢力を広め、信仰を伝えていったと書物に書かれています。

 お釈迦様が亡くなると、神通力を使う人もいなくなりました。そして亡くなる時に、「きみたちはそんな不思議なことをして、人々を驚かさなくていいんだよ。私が教えたことをただ信じて、守っていけばいい」―そう言ったそうです。それから、2000年以上も、仏教の教えは信じられ、伝えられてきました。

 お釈迦様の教えのなかに、「五戒」というものがあります。(1)生き物を殺すな。(2)ウソをつくな。(3)盗みをするな。(4)姦淫するな。(5)酒を飲むな。というものですが、これがまた難しい。

 例えば、強盗に入られて「金を出せ」と言われたときに、金があっても、「家にお金はありません。全部銀行に預けてあります。」と強盗に言うでしょう。その時、そばにいた子供が「お父ちゃんのうそつき。あそこにしまってあるじゃんか」と言ったら、どうでしょう。

 何でも「悪い」「よくない」、というとおかしなことになる。世の中の決め事って、とても難しいものなのです。
 何事にもこだわらず、今を自覚して淡々と生きる。これも大事なことです。

 私の長男は赤ちゃんのとき、縁側から落ちて大たい骨を骨折しました。入院し、まもなく回復しましたが、そのとき隣のベッドで寝ていた老人が、こう言うんですね。
「いいなあ、赤んぼうはいいなあ。こんなに早く治っちまうもんかなあ」とね。赤ちゃんはすぐに、骨がつながっちゃうらしい。でも老人は3か月も、4か月もつながらない。

 同じ人間の骨でも赤ん坊の骨と老人の骨は全く別ものだ、ということ。人生も同じで、どんどん変化する。極端に言えば、今日の私は昨日の私ではない。今を自覚して、ちゃんと認識することが大切なのでしょう。

 1メートルのひもを用意して、これを100年と考えてみてください。私は今、83歳だから83センチのところまで生きたわけです。欲張って生きたって、90センチぐらいまでかな?……そう考えても、あと残り7センチ。これっきりしか残っていないんです。

 すると、残りをどう生きようか、生き抜くか? という考えに変わります。
 死は結局のところ、分からない。
 でも、「分からない」問題だからこそ、考えていきたい。引き続き次回も、みなさんと一緒に「死」について、しっかり向き合っていきたいと思います。

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