死は結局のところ、分からない。分からないなら、信じてみよう

講演日: 2017年 03月20日
    講演者: 
  • 院首 及川真介 上人
Podcast

100年を、1mに例える。
人生は長いか? 短いか?

 人生は長いか? 短いか?
 お話を通じてこれまで、生と死について考えてきましたが…やっぱり正直なところ、「分からない」というのが率直な感想ですね。

 今日もお話の前に、台所で長いひもを探して1mに切り、これを100年として考えてみました。すると、私は84歳だから…ひもに例えると、84センチまで人生を使っちゃったわけです。それも、仮に100歳まで生きればの話なので…寿命を85歳とすると、残りは、わずか1センチ(笑)。このひもが、充実した日々であればよいですけどね。

 私の場合、何をやってきたか分からない(笑)。ただズルズルやってきただけのような気もするし、極めて短かかったような気もしますねえ。

 人生を長いと感じるか、あっという間と思うか―みなさんは、どう感じていますか?

 私自身の人生を振り返るとあまり勉強したおぼえはないのですが、東北大を卒業後、東大の大学院に進みました。でも当時は、いつも朝になると、本郷の門までは行くんだが、教室には行かないで、ついつい上野動物園に行ってしまい、私の一番好きな動物、ゴリラなんかと対面していましたね。ゴリラのほうはまったく動かず、こちらを見ている。それが何となく哲学的でね……。「おい、オマエ。ジャングルでの暮らしがなつかしくないのか?自由とはなにか?」なんて、考えているわけです(笑)。そんな日々でしたね。

 大学院を卒業してからは、住職をしながら大崎と熊谷の立正大のキャンパスで英語の先生をしていたのですが、当時は1クラス50人で…何クラス持たされたと思いますか?12クラスですよ。だから泊りがけですよ。土日はお寺の仕事があるからそちらのほうもやって、以来60年間、パーリ語の翻訳の仕事に携わりました。

 そして、30年ほど前に本を出しました。
 日蓮大聖人が亡くなって700年目。爾来今日まで紙にして9000ページもの内容を、出版して来ました。

 我ながらよく書いたな、と思います。でも、誰もほめてくれるわけではないし(笑)、たいして評判にもならない。なぜか?

 私が翻訳しているのは、「小乗仏教」なんです。みなさんがおやりになるのは、「大乗仏教」。簡単にいうと、小乗仏教は「自分さえ悟りを開けばいい」という考え。大乗仏教は、「人様を救おう」という考え。でも私は、人間にも、こんな風に2つの生き方があると思うのです。

頭で覚える。文字に残す。
大乗と小乗の解釈の違い。

 アメリカ大統領のトランプ氏の、「アメリカさえよければいい」という考え方がいま批判されています。でも、「自分の力もついていないのに、弱い者を手助けはできない。だから何かをするにはまず、自分を強くしてからだ」という考え方も、正しいですね。ただ、周りのことすべてをほったらかしにするのは、ダメです。つまり、バランスが難しいのだと思います。

 仏教では、雪山童子という話があります。
 ヒマラヤの山で少年が修行をするのですが、どうしてもうまくいかない。誰かいいことを教えてくれないかな―と考えていると、帝釈天が鬼の格好をして現れ、ありがたい歌をうたってくれるのです。少年はぜひその歌を教えてほしいと頼みます。すると鬼は、「オレは人を食って生きている。オマエを食わせてくれるなら、教えよう」と言うんですね。

 少年は、「分かりました」と言って、歌を教えてもらい、木に登り、そこから飛び降ります。すると、そのとたんに帝釈天が元の姿に戻り、少年を受け止める、というお話です。これは法隆寺の「たまむしの厨子」の側面にも描かれている、仏教では有名なお話です。

 このお話も、大乗と小乗で解釈の違いがあります。小乗仏教では、少年が帝釈天の話を聞いて、「ただ嬉しくなって飛び降りた」という結末なのですが、大乗仏教では、少年がその話を人々のために岩や木に書き写した、と伝えられています。「誰かのためにある」のが大乗で、「オレ一人が、バンザーイ」というのが小乗というわけです。

 ではなぜ、解釈が違うのでしょう? それには、文字の誕生が関わっています。

 小乗仏教の誕生は紀元前5世紀。大乗仏教はそれから約500年ほど後に生まれました。小乗仏教の頃は文字がなかったんですね。お経を書くにも書けない。法華経では書写が何度も出てきますが、小乗の頃は、書写はなかったわけです。だから僧たちはお経をひたすら暗記したんですね。

 そのため、間違って覚えることもありました。一人で唱えると間違えてしまうから、大勢で合唱のようにして覚えていったんです。みんなで声を合わせ、一言一句間違えないように。するとそのうちに、天災や飢饉がやって来ます。作物が実らず、亡くなる人も増え、僧たちも死んでゆきました。でもお経を記憶した僧がいなくなったら、お経もなくなってしまうから、頭の中以外のところにお釈迦様の教えを残そうということで、お経を文字で書くようになりました。

 最初は岩に書きつけました。そうやって、ずーっと伝えられてきたわけです。インドから砂漠を伝わり、中国から日本へ。平山郁夫さんの作品にも、ラクダがお経を背負って、長い長い旅をする絵がありますね。

 一部のお経は頭の中に記憶して運んだのですが、人間はコンピュータではないから、途中で忘れることもあった。だから、現在の中国のお経のなかには、「これ以降は、忘れました」いうくだりが出てくるものもあります。

人間は死んだら、ゴミなのか?
次に生まれ変わるのか?

 60年間、亀の歩みのようにパーリ語を翻訳する仕事をしてきましたが、この中で一番たくさん出てきたのは、「輪廻」という言葉です。

 死んだら別の世界に生まれ変わる。そして今の世に出てきたのも、何かの生まれ変わりだという解釈ですね。これがくどいように出てきます。

 作家の立花隆さんの著書「死は怖くない」には、ガンで亡くなった検事総長の話が出てきます。彼は、「人は死ねばゴミになる」と言います。火葬場で焼かれて一巻の終わりだと。輪廻の否定です。これに対し、看護していた奥さんが言うんです。
「あなたのような冷たい考えはイヤです。死んでからも、残された私たちを見守ってくれなければイヤです」と。奥さんは、そう信じたかったんですね。

 みなさんは、どちらだと思いますか?

 私も、ゴミになりたくないなあと思う一方で、ゴミになっても仕方ないかな、という思いも、無きにしもあらずで…(笑)。
 結局のところは、分からない。

 結局のところは、その人が何を信じるか?
 つまり、信仰なのだと思います。

 宗教は、理屈ではないです。学校は理屈で分かることだけを教えますが、宗教は分からないことでも信じる、ということですよね。だから、難しい。

 分かっているのは―お釈迦様だけです。
 お釈迦様は悟りを開いたとき、6つの超自然能力を身につけました。遠くのものを見る力や、空に飛びあがる力…その中に、過去・現在・未来を全部見通す力がありました。

 亡くなった人の頭蓋骨を叩けば、その人がいいところに生まれ変わったのか、地獄へ行ったのかが分かったそうです。また、人が困ったことを改善したり、病気や貧困、家庭不和を治したりしたので、当時の民衆は「すごい」「この人の言うことは、間違いない」と、お釈迦様の力がどうしてなのかよく分からないけど、とにかく信じたわけです。こうして2500年の間、仏教は伝えられてきたのです。

 ところが近年、100年の間に西洋流の勉強の仕方に代わりました。日本の仏教学も、合理的な面だけが採り入れられてきました。結果、ここ100年は、日本人も理屈でものを考えることに慣れてしまったんですね。

 死後の世界は、本当のところは分かりません。でも気持ちとしては…信じてみたいものです。私の父は、「死んだら日蓮様のもとへ行くんだ。でもお迎えが、なかなか来ねえなあ」とつぶやきながら、眠るように安らかにこの世を去りました。ある意味、理想的ですね。

 死は結局、誰にも分からない。それならば、日蓮聖人さまの「死んだら私のところへおいで。私は必ずあなたを待っていますよ」というお言葉を素直に信じて、安らかに死を迎えることができたら―それがいまのところ正直な、私の思いであります。
 みなさんは、いかがでしょうか? 

 一年間ご清聴いただき、本当にありがとうございました。

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