聖人のお国自慢
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発行日: 2024年 03月05日
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季報: 春 第113号 掲載
住職 及川玄一
新しい春を寿ぐ節分の朝、たくさんの長寿札を本堂正面に飾り、法要を営んだ。檀家名簿の記録では百寿を迎える方が六名、白寿が八名、卒寿、米寿、傘寿、喜寿の方々を加えると二七四名にもなる。ご宝前でそれらの方々の名前を読み上げ、神仏にいただいたご守護に感謝し、益々の息災延命を祈願させていただいた。
二月にはふたつの聖日がある。十五日がお釈迦さまのご命日・涅槃会。十六日は日蓮聖人のお誕生日・降誕会である。お釈迦さまは八十歳でお亡くなりになられたが、二千年前のインドではたいへんなご長寿であったと思う。
日蓮聖人は安房国・小湊で誕生なさった。漁を生業とする漁民の子と自ら記されているが、利発な少年であったか十一歳の時に土地の名刹・清澄寺に預けられた。十五歳で出家、十七の歳には鎌倉に遊学している。その後、二十歳で比叡山に上られ、三十一の年に清澄寺に戻り、立教開宗なさった。三十九歳のとき伊豆流罪、十年後には佐渡に流罪となり、三年後に罪を解かれて鎌倉に帰るも程なくして身延山に入られている。
十七歳で故郷を離れてより、六十歳でお亡くなりになるまで、その波乱万丈の生涯は聖人を一所に留まることを許さなかったが、それ故か、郷里を思う気持ちの強い方でもあられた。身延の山中にあって安房の信者から届けられた海苔の香りを喜び、山頂に登って東の空を遥かに望んで故郷の大海原を思い描かれた。
「聖人御難事」という御書には「安房国長狭郡の内、東條の郷、今は郡なり、天照大神の御厨、右大将家の立て始め給いし日本第二の御厨、今は日本第一なり」と生まれ故郷が伊勢神宮・皇室と深いつながりをもつ由緒正しい土地であると誇らしく語られている。
御厨は神さまに奉納する作物を作るための特別な農地のことをいうが、聖人はとくに天照大神=伊勢神宮の御厨であること、それも元は二番目の位置付けであったが今は一番になったと郷土自慢をなさったわけである。
九十七歳で逝った祖母の三回忌が来る。健在ならば今年は百寿のお祝いであった。私が八王子からこの寺に移った当初はまだ元気もあり、夕餉に少しのお酒を楽しんでいた。祖母の故郷は伊予の八幡浜で、女四人、男三人の七人兄弟の二女だったそうだ。昔は子供が多い家は珍しくなかったが、自分だけが親を独占して甘えるようなことはまずなかったと思う。それでも毎晩のように話してくれたことは小さいころに接した父母のことばかりであった。
五月には日蓮聖人がお生まれになった誕生寺、出家・立教開宗を宣言された清澄寺、聖人のご両親を供養する妙蓮寺を参拝する旅行を予定している。お檀家各位のご先祖をお護りするこの寺は皆さんの第二の故郷と言えまいか。そしてこの寺の原点は聖人ご生誕の地にある。