令和元年十月 お会式法話
-
発行日: 2019年 11月10日
-
成子新聞: 第5号 掲載
令和元年10月8日 お会式 法話
常圓寺日蓮仏教研究所
主任 都守基一上人
日蓮仏教研究所の活動
「日蓮仏教研究所」といいましてもお檀家の皆様にはあまり馴染みがないかもしれません。
常圓寺の庫裡の背中合わせにあり、屋上に「こころ伝える日蓮宗 新宿常圓寺」の看板を掲げる四階建てのビルです。平成18年の開所以来、常圓寺の院首様である及川真介先生を所長に、私が主任として常駐しております。
宗門には立正大学の日蓮教学研究所をはじめいくつかの研究機関がありますが、日蓮仏教研究所はそのような公的な機関ではできにくい小回りの利いた自由な活動をやってみようと始まりました。及川所長はパーリ語仏典翻訳の権威として現役で研究・出版を続けていらっしゃいます。私どもは所長を見習い地道な資料研究に努め、年に一回『日蓮仏教研究』を刊行し、また、常圓寺とゆかりの深い本山のご宝物・古文書の調査や整理などのお手伝いをさせていただいております。
子供の目
昔の読売新聞に、小学2年生の男の子が作った詩が載っていました。
「くせ」
お姉ちゃんは足をがたがた動かすクセ
お父さんはビールを飲んだ後、「あーっ」と言うクセ
お母さんは僕の顔を見ると「早くしなさい」と言うクセ
僕はえーとえーとわかんない
子供の目は、私たちが気付かない面白いこと、私たちが忘れてしまった大事なことを発見してくれるものです。
次は中学1年生の女の子が作った俳句です。
「空席の ない夕ご飯 盂蘭盆会」
このお宅ではおそらく、おじいさんかおばあさんが亡くなられたのでしょう。日常の楽しい食卓にぽっかり空席ができてしまった。けれど、今日は亡くなったご先祖さまが帰ってくる初盆。目には見えないけれど全員が席についている喜びが伝わります。
もう一つ、知的障害の子供を預かる施設でのこと。この施設では教育の一環として鶏を飼育し、その卵を売って運営費の補助に充てていました。ある時、卵を産まなくなってしまった鶏を肉にして売ろうとすると、熱心に鶏の世話をしていたA君が「先生、鶏を殺しちゃいけないよ。卵をよく産む鶏は、産まない鶏の分まで頑張って産んでくれている。だから産まない鶏がいなくなったら、産んでいた鶏も卵を産まなくなってしまうよ」と言ったそうです。それを聞いて先生方は大いに反省させられたということでした。
私どもは目に見える現象だけを見てそれが世の中の真実の姿だと思い込み、損か得か、合理的かそうでないかという物差しで物事を考えがちです。打算や分別に毒されていない子供たちは、純粋で温かい心の目で世の中の真実の姿を見ているのかもしれません。
法華経の如来寿量品第十六に「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」とございます。仏様は私たちのそばにいらっしゃいますが、動転して正気を失っている私たちには見えません。仏様が手を差し伸べてくださっているのに気付かないのです。しかし、「柔和質直なる者」「質直にして意柔軟に」とあり、私たちが素直な純真な心に立ち返った時、久遠実成に生きていらっしゃる仏様の姿を目の当たりに見ることができると説かれています。
日蓮聖人のご生涯
今日は「お会式」、日蓮宗の宗祖日蓮聖人のご命日を偲ぶ法会です。聖人は弘安5年(1282)10月13日に61歳で亡くなられました。今年は第738回目のご命日にあたります。
日蓮聖人は、お釈迦様が五十年の説法の最後に説かれた法華経の題目「南無妙法蓮華経」によってのみ、この末法といわれる時代の人々は救われるのだという結論に立たれ、建長5年(1253)故郷の清澄寺で立教開宗を宣言なさいます。しかし、この時に流行していた浄土教を批判したために故郷を追われ、鎌倉へ出ることとなりました。
当時の鎌倉は災害が続出しており、特に正嘉元年(1257)の大地震は今でいう東日本大震災のような被害が『吾妻鑑』にも記録されています。その後も台風や飢饉や疫病が続いてたくさんの人が犠牲になりました。幕府は諸宗のお坊さんや陰陽師に祈祷を命じますが効き目がありません。日蓮聖人はこの状況を広く仏典に照らし、「正しい仏法が蔑ろにされ悪法邪法がはびこっているために、国土を守護する諸天善神が国土を捨て去ってしまった。このまま人々が信仰をあらためなければ、他国侵逼難、自界叛逆難といって戦乱やさらに恐ろしい災害が国土を見舞うであろう」と考えられました。その主旨をまとめられたのが、有名な『立正安国論』です。
そして39歳の時、時の幕府の実力者であった前執権北条時頼公に『立正安国論』を上申しますが、その主張は受け入れられませんでした。その後はご存じのとおり迫害法難の連続です。鎌倉・松葉ケ谷の草庵を焼き討ちにされ、40歳の時には伊豆の伊東へ、50歳の時には北国の佐渡へ流罪となりました。佐渡で足掛け4年を過ごして赦され、再び鎌倉で最後の諌暁を行いました。しかし受け入れられることはなく、「三度諌めて用いられずんば、山林に交わる」という格言に従って甲斐の身延山に籠られました。
身延山に入られて9年目の弘安5年(1282)、還暦を迎えた日蓮聖人は、数年前から患っていた慢性の下痢が悪化したため、常陸国(今の茨城県)の加倉井に湯治に赴くことになりました。9月8日に身延山を下り、お馬の背中に揺られながら富士山の北回りを回って11日目の9月18日に武蔵の国池上の檀越の館に到着。今の池上本門寺があるところです。翌19日には身延山の領主である波木井実長公に手紙を送られています。「お子さん達が守ってくれたお陰で無事に池上までたどり着くことができました。自分のような日本国中に厄介者扱いされた身を9年もの長き間受け入れ、帰依してくださったことは申し上げようもなくありがたいことです。ですので、たとえどこで死のうとも、お墓は身延の沢に建ててください。つけていただいた栗鹿毛のお馬は大変愛おしく思います」との懇ろなお礼状『波木井殿御報』が日蓮聖人の絶筆となりました。
9月25日、門弟のために『立正安国論』の講義をなされ、10月8日には六老僧を後継者に定めて身延のお墓を当番で護るようにと遺言をなされ、12日に病があらたまり13日の辰の刻、朝の8時頃61歳の波乱に満ちたご生涯を閉じられました。
その時、大地が震動し庭前の桜が時ならぬ花を咲かせたということで、今にお会式桜と言って必ず桜の造花をお会式に飾ることになっています。池上の大坊本行寺にまいりますと、「ご臨終の間」と「お寄りかかりの柱」、何代目かですが「お会式桜」が残っています。
誰もが成仏できる教え
日蓮聖人の教えを一言でいえば法華経です。法華経は一部八巻二十八品、六万九千三百八十四文字からなります。名は体を表すといいますように、二十八品の内容は題目の妙法蓮華経の五字に備わっており、〝一心に法華経に帰依します〟というお題目「南無妙法蓮華経」を唱えることによって、すべての人々が成仏できると説きます。利己主義、独善主義として嫌われていた声聞と縁覚、悪人の提婆達多、わずか八歳の竜女も成仏するという、人間の平等を徹底して説く教えなのです。
先師の思い伝える身延山大学
私は今、毎週月曜日、身延山大学に出向させていただいています。全学年で81人の日本一小さい大学といわれていますが、その分、教育の面でも環境の面でも非常に充実した学校です。図書館の蔵書には立正大学にないような貴重な資料があり、韓国のお坊さんも学びにきています。
その身延山大学には長い歴史がありますが、近代的な学校として出発したのは明治26年の祖山大学院からです。それ以前は第三区大檀支林という宗門の学校がありましたが、明治23年に行き来に不便という理由で甲府に移転となりました。その時、三村日修法主猊下が「祖山に読書の声を断つは不可なり」として、身延山に小規模な私立の学校が始まりました。その後、甲府へ移転した宗立の檀林は、他の全国十二区の学校とともに立正大学に合併されて廃校となりました。祖山大学院だけが祖山学院、身延山専門学校、身延山短期大学、身延山大学と名前を変えながら今に続いているのです。「祖山に読書の声を」という先師の強い思いを感じつつ、学生さんと一緒に『立正安国論』の音読をしております。
お会式の主旨
日蓮聖人は恩師道善坊の遷化を受けて、回向報恩のために『報恩抄』を著述されました。その中に「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年のほか未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」云々とあります。
日蓮聖人の半生をかけた弘通は慈悲に基づくもので、ただ他宗が憎くて攻撃していたのではありませんでした。共倒れになり一緒に地獄に落ちてしまわないように、一切衆生の盲目の目を開く、それが南無妙法蓮華経の教えです。
先ほども申し上げましたが、すべての人々の平等な救いを説くのが法華経です。その法華経の教え、南無妙法蓮華経のお題目を未来の私たちのために命懸けで弘め遺してくださった日蓮聖人に感謝の念、報恩の思いを捧げるのがお会式です。また同時に、七百三十八年の間、日蓮聖人の教えを今に伝えてくださったその時その時の先師先輩方にも報恩の思いを捧げるとともに、お題目を一心にお唱えして、打算や自我・我欲のために曇ってしまった心の目を開き真実を見ることを心掛けることがお会式の肝要ではないかと思います。
長時間のご清聴、ありがとうございました。