「とき」
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発行日: 2021年 01月10日
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成子新聞: 第11号 掲載
令和2年12月20日 法華感話会 法話
「とき」
住職 及川玄一
お寒いなかお集まりいただきましてありがとうございます。今日は暮れの釜〆のお経に伺っている僧侶もおりまして、普段は私を含め十人いる半分の人数でお経を勤めさせていただきました。気づいた方もいらっしゃるでしょうか、今日のお供え物はお寺の前庭になっている柚子の実です。今朝収穫したものですが、こんなにも鮮やかな色をしていたのかと眺めておりました。明日は冬至ですが、昔から冬至には柚子湯でしもやけやあかぎれを癒したり、小豆のお粥をいただいて邪気を除くとする風習が伝えられています。
立春、春分、秋分など一年を二十四の季節に分けた二十四節気のなかで、私はこの「冬至」が一番気になるんです。冬至というのは一年の中で一番昼の長さが短くて、夜が一番長い日ですから、翌日からは昼が少しずつ長くなります。つまり、当時は冬の底のようなもので春への出発点。もう少し頑張れば春が近づいてくるように思えることが私にはうれしいのかなと思います。
自然のサイクルと重なる百日の荒行
常圓寺では三十年ほど前から、将来、中山法華経寺の荒行に入ろうという気持ちのある若い僧侶が11月1日からの百日間、朝の6時に水行をしています。今朝も水行肝文を唱える元気な声が聞こえました。
私はこの荒行も冬至と深いかかわりがあるのではと想像しています。ちょうど今日12月20日あたりが11月1日から数えて50日目。百日間の真ん中にあたります。水をかぶり始める11月1日頃の朝6時は結構明るいのですが、今日は真っ暗でした。でも明日を過ぎると、少しずつ少しずつ水をかぶる時間が明るくなってきます。
我々がお日様からいただくエネルギーの量は冬至まではだんだんだんだん少なくなり、冬至を過ぎるとだんだん増えていくわけです。今年は新型コロナウィルスのために荒行が中止になりましたが、行われていれば今ぐらいのころが肉体的にも精神的も最もきつい時期ではないでしょうか。荒行に入る前に体が蓄えていたエネルギーは、すべて使い果たされて空っぽ。その肉体的な飢えというのは百日間続いていくのでしょうが、一方で五十日間修行して養われてきた精神力は枯渇せずに冬至と重なる五十日を過ぎて強さを増していく、日照時間に導かれるようにたくましくなっていくのではと想像しています。
クリスマスと「冬至」
冬至の数日後にくるクリスマス。このクリスマスは北欧地方の冬至を祝うお祭りが原点といわれています。北欧の冬は長く、日照時間は限られています。それ故に太陽の光に対しての感謝の念は常夏の土地に暮らす人に比べてはるかに深いはずです。「この一年、日が短くなるまで皆さんよく働きました。これからは温かい方に向かっていきますから、仕切り直してまた頑張っていきましょう」と。そんな思いが元々のお祭りにこめられたのではないでしょうか。
年末に思い出す朱子の言葉
話は変わりますが、中国では季節を色で表します。春には青をつけて「青春」、夏には朱をつけて「朱夏」、秋は「白秋」、そして冬は「玄冬」というそうです。玄には黒いという意味がありますから、冬は光が少なく暗いということなんでしょう。冬に黒という字が当てられていることで、青い春が引き立っているようにも思います。
中国に「朱子」という儒学者がいます。朱子学の創始者です。年末になるといつも思い出す朱子の句です。
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
いまだ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉すでに秋声
「時はあっという間に過ぎ去っていくのに、何かを成し遂げるということは容易いことではない。だからこそわずかの時間も無駄にしてはならない。春朗らかなときに池の淵でまどろむ夢見心地がまだ覚めない。でも庭の階段の前にある桐の木の葉を見るとすでに紅葉している。季節は秋、冬はもう目の前だ」。拙い訳ですが、時というものはあっという間に過ぎ去ってしまうものだから無駄にしてはいけないよ、そんな言葉です。
「もしかしてコロナ?」
先月のこの会で、産経新聞朝刊の一面に出ているエッセーから、卒寿を迎えた男性が86歳の奥さんを介護しているという話を紹介しました。毎度ですが今回は同じ欄に掲載されていた、小金井に住む91歳のおばあちゃんが書いた話を紹介したいと思います。
もしかしてコロナ?
一瀬靖子さん(91)東京都小金井市
つるべ落としの暮れ方、けだるさに着のみ着のままベッドにもぐってしまった。
恐る恐るみつめた体温計は38度を軽く超え、思い当たるふしはないはずなのに、追い払おうとしてもコロナの3文字がまといつく。
近くに住む娘からの安否確認電話の答えも、いつもの茶目っ気は消えうせ「ネツダネ」と低温でひとこと。あっと言う間に息子が勤務する遠方の病院に入院が決まった。
次の日、大学生の外孫がハンドルをとり、娘の付き添いで出発。大好きな東北道もすずくまったまま不安を緊張を乗せ北へとひた走る。
「あ!今日は今の私と同年で世を去った母の命日、しかも仏滅!」。暗いかげをふり切り、「お母さん助けて」と気丈な明治の人だった母に祈る。
雪を頂く日も近い山並みを望む院庭に到着。防護服の息子が目に入り、体の力が抜け、PCR検査、採血と点滴もありがたく「俎上の魚」となった。
どれ位の時が過ぎたろうか。「よかったですね、コロナじゃなくて」。天使の晴れやかな声。車いすは飛ぶように病院に向かい尿路感染症と診断され深い眠りに入る。
翌晩、息子が花火を見ようと誘いにきた。院庭でのコロナ撲滅祈願花火だ。夜空中に弾け散る花々のエネルギッシュな美しさ、轟き渡るひびきに、私は母の励ましをしっかり感じとった。
点滴をお供に、還暦の息子に支えられて見た花火は90代のエールとなった。これからもまわりのすべてに感謝して生き抜きたい。私が元気なうちにコロナ禍がおさまりますように。
(産経新聞 令和2年11月30日「朝晴れエッセー」より)
今、身につまされるお話ですよね。「熱が出ちゃった」「のどが痛い」「ひょっとしたら」、誰もがこういう心配の中に身を置いています。まして91歳。高齢の人ほど気を付けましょうということは耳が痛くなるほど言われていることで、よもやと暗い気持ちでベッドにいるのがよくわかります。
幸いこの方は恵まれた環境にあって、近くにいる娘さんから始終、安否確認の電話が来る。男の孫さんもいるようで車を運転してくれる。おまけに息子さんはお医者様ですから、救いの手がすっと伸びた。なおかつPCR検査も問題なかった。花火まで見せていただいて何よりであったわけですが、やはりそれでも「周りに感謝して頑張って生きていこう」「この災いが早くおさまりますように」とそんなことを思っています。感謝の中に最後までしっかり生きるぞという気持ちを感じる文章です。
「とき」を正しく理解する
先月紹介した寺田寅彦さんの言葉を覚えていますか?
モノを怖がらなさすぎたり、怖がりすぎたりするのは易しいが、
正当に怖がることはなかなか難しい
今の我々にとって大事な言葉だと思い、頭のどこかに置いて帰ってくださいとお願いしました。
この寺田さんの言葉にある「モノ」を、先ほどの朱子の「一寸の光陰軽んずべからず」の教えで述べた「時間」に置き換えてみると、わかりやすいかもしれません。
時間を怖がらなさすぎたり、怖がりすぎたりするのは易しいが、
正当に怖がることはなかなか難しい
たとえば「池塘春草の夢」。池の淵で気持ちよく夢見心地になっているのは、厳しい言い方をすれば現実を見ていないということです。時は刻一刻と過ぎていることを忘れてしまっている、要するに時を怖がっていない状態です。
そして「階前の梧葉すでに秋声」は、階段の前の桐の葉が色づいていて「あぁ困った、気づいたら冬が来ちゃってる」とこれは逆に怖がりすぎている状態とも言えます。
当たり前すぎることですが、一日24時間これだけは誰もが平等です。「○○さんはまじめだから1時間多い」「○○さんは不まじめだから1時間少ない」。それは絶対にありません。どんな人にも24時間、365日。これを本当に正しく理解できているかというと、理解できていないから時間を無駄にしてしまう。それが怖がらなすぎたりということです。時間というのは怖いもの、平等であるが無駄に過ごしやすいもの、そういう風に受け止めることが大事ではないでしょうか。
時間についてはいろんな人が同じことを言っています。「時は金なり」もそうですし、日蓮聖人は「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」とおっしゃいました。“時というのは止まってしまうときがくることをよく弁えて大事に使ってください”ということです。これは私が自分自身に一番言い聞かせていることであり、常に我々が心しなければならないことだと思っています。
11月、12月とこうして無事に感話会を開かせていただくことができました。今年は本堂の工事に携わりましたが、順調に進んでおりますのも皆さんのおかげです。今年度中におおよその事業を完結させていきたいと思っておりますので引き続きのご協力をお願いいたします。