春告草
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発行日: 2023年 03月01日
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季報: 春 第109号 掲載
住職 及川玄一
この寺の山務に従事する西嶋良明師が昨年十一月一日、千葉・中山法華経寺での百日間の荒行に入行した。コロナ禍によって二年間修行場が閉じられ、ようやくの再開を待ってのことだった。
日蓮宗の荒行は寒中の水行だけでなく、一日の睡眠は三時間、食事は粥のみ二回であることなど、人間の根本的な欲求である睡眠欲、食欲を極限まで削る厳しさだ。
当山でも同じ期間毎朝六時、将来荒行入行を志す若い僧侶二名が百日間の水行を続けた。都心の高層ビルから強く冷たい風が吹き下ろすこの寺では、水行用の四斗樽に氷が張る日もある。自ら進んで毎朝の寒修行を続けることはなかなかに厳しい。
そんな百日間が終わったころ、境内の梅が一輪の白い花を付けた。毎年この時期になると心待ちにしている光景だ。
松尾芭蕉に師事した服部嵐雪は「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」と詠んだ。寒さの中に少しの暖かさを見つけて、一輪また一輪とふやす。その香りに乗せて、冬の終わりが近いことを優しく控えめに伝えてくれる。だから「春告草」とも呼ばれる。昔から人々は梅の開花に冬が終わり、春が来ることを見ていた。
他にもある。空を飛ぶ鶯は「春告鳥」であり、海の鰊は「春告魚」と呼ばれる。「梅に鶯」は、絵に描いたような春到来の様だ。
日蓮聖人は「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。この涙、世間のことにはあらず。ただひとえに法華経の故なり」との言葉を残された。
『法華経』にはこの法を信じ、行う人は必ず苦難を被ると説かれている。だから、私が数々の法難を受けることは正しく法華経を信行していることの証になる。私にとってそれはこの上ない喜びであり、流す涙はその喜びの涙である、と。
「苦あれば楽あり」というが、困難と喜びは切り離すことができない。苦労を喜ぶ人はいないが、現実には苦しみと喜びは表裏であり、その量は相半ばする。困難が少ない人の喜びは少なく、多い人の喜びは大きい。それは自然の摂理でもあろう。
春の訪れはうれしい。季節の巡りに感謝しながら迎えたい。