よきものと睦ぶ
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発行日: 2018年 09月20日
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季報: 秋 第91号 掲載
住職 及川玄一
暦はいつしか九月。振り返れば、思わぬ人事異動であわただしく当寺に越して来たのが四月。慣れない中、とにかく七月四日の法燈継承式まで、それに続くお施餓鬼まではと、身心を傾けました。幸いにも、継承式当日は穏やかな快晴の下、多くの方々のご参列・ご協力をいただき、滞りなく執り行うことができました。深く感謝いたします。
八月に入りようやくひと息つきました。例年にない酷暑でさえ、忘れるほどの日々でした。今に至って、忙しく気持ちにゆとりがない状態は避けたいものだ、などと思い返しております。行う事が諸事ぞんざいになり、笑顔を失っていたように思うからです。
残念ながら、私には趣味らしい趣味がありません。没頭できるものをお持ちの方を羨ましく眺めておりました。そこで一念発起。これからは、日本を代表する文学作品をできるだけ多く読み通そうと思い立ちました。古今東西と言いたいところですが、欲張りは禁物。まずは馴染みやすそうな分野から、が長続きの出発点でしょうか。
歴史に刻まれる名著に触れる機会は、若い時にこそその意義は大きいのでしょうが、いくつになってからでも遅過ぎることはない、と思い至ったのです。読書が習慣になり、さらに趣味と言えるようになれば嬉しいことですから。
谷崎潤一郎は、良い文章を書く秘訣を問われてこう答えています。「文章に対する感覚を研ぐのには、昔の寺子屋式の教授法が最も適している。講釈をせずに、繰り返し、繰り返し音読せしめる。古来の名文といわれるものを、できるだけ多く、そうして繰り返し読むことです。そうするうちには次第に感覚が研がれてきて、名文の味わいが会得されるようになり、それと同時に意味のわからない箇所も、夜がほのぼのと明けるように釈然としてくる。即ち感覚に導かれて、文章の奥義に悟入するのであります」(大意)。名文に触れる、繰り返す、それが奥義の理解に至る道であると。
日蓮聖人が、最晩年に身延山で書かれた書簡『』には「法華経と申すは隨自意と申して仏の御心を説かせ給う。仏の御心はよき心なるゆえに、たとい、知らざる人もこの経を読みたてまつれば利益はかりなし。麻の中のよもぎ、筒の中の蛇、よき人にもの、何となけれども心も振舞もことばも直しくなるなり。法華経もかくのごとし。何となけれどもこの経を信じぬる人をば仏のよき物とおぼすなり」とあります。極意に達する、この世の良き存在になる道は、よきものと交わることに始まると。
彼岸を迎えます。先祖を偲ぶ、墓に参る、よき風習ですが、彼岸という語には向こう岸という意味もあります。悩み多きこちらの世界から悟りの世界を展望する。極意、奥義、良きものを目指しての旅立ちにふさわしい時であるようにもおもいます。