小さな出会いをはげみに
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発行日: 2019年 01月01日
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季報: 冬 第92号 掲載
住職 及川玄一
明けましておめでとうございます。本年も宜しくお願いいたします。
住職となって初めての正月を無事に迎えることができました。これもひとえに、お寺を大切になさって下さるお檀家の方々のお陰と、感謝申し上げます。
昨秋、祖師堂エレベーターを屋上へと延伸する工事が完成。除夜の鐘に訪れてに上る方々の便が良くなり、多くの参拝者が当山で正月を迎えました。
「平成」最後の正月です。元号に込められた願い通りにはいかない三十年でしたが、思いもかけないことが起こるのがこの世の実相です。だからこそ、社会のを願う元号の二文字が選ばれるのでしょう。
日蓮聖人は「安寧な世は正しい教えを根本とした国家運営によって実現される」と訴えられました。そのお考えを簡潔に表したのが「立正」の二文字です。正しい教えをもって国を立てる、との意です。日蓮聖人が説く正しい教えとは法華経のことです。それを正法と言います。では、なぜ法華経が正法たり得るのでしょうか。それは、法華経には悟りを開かれたお釈迦さまのありのままの心が表されているからです。お釈迦さまの心と悟り(真理)と法華経は、イコールで結ばれているのです。
しかし私には、長く解けない疑問がありました。お経はお釈迦さまの説法集です。実録ではなく、聴聞者の記憶をまとめたものです。それでも、同じ言語を使う人たちが編集したものですから、言葉はかなり正確に伝えられたはずです。ところが、私たちが信仰の対象とする法華経は、中国・六朝時代のが、インド・西域の言葉から漢文に翻訳したものです。それで仏さまの心が正しく伝えられているのでしょうか。
昨年十二月二日付産経新聞の「記者発」というコラムで、文化部の海老沢類記者による文章に目を止めました。アメリカを代表する文学賞、全米図書賞の翻訳文学部門に作家多和田葉子さんの小説『献灯使』が選ばれたことを取り上げ、その作品を英語に翻訳した訳者の仕事ぶりを讃えています。私の目を開いてくれたのは以下の一節でした。「訳者の知性や情熱がしみ込んだ翻訳は、原作に新しい魅力を加えた一つの創作物とも言えるのだ」。
法華経翻訳に置き換えてみますと「鳩摩羅什の知性や情熱がしみ込んだ法華経は、お釈迦さまの言葉に新しい魅力を加えた一つの創作物とも言えるのだ」となります。私の中に長年あったザワザワしたものが消え、目から鱗が落ちたような気がしました。
新聞を読むという日常的な行為から、気づきの種、予期せぬ救いの手が差し伸べられました。有り難いというか、妙なものです。とはいえ、私たちの人生はそうしたもので、予期せぬ物事との出会いで成り立っているのかもしれません。
確たる指針も整わぬまま新年が始まってしまいましたが、今年も小さな出会い、小さな気づきに助けられながら歩いて行くのだろうと思っています。