蓮の台(はすのうてな)
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発行日: 2019年 07月01日
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季報: 夏 第94号 掲載
住職 及川玄一
住職に就任して一年、檀信徒の皆さまのおかげをもちまして、何とか無事に務めることができました。去年の今頃は、法燈継承式の準備で慌ただしく過ごしておりました。少し落ち着いたわが身わが心を思いながら、改めて篤くお礼申し上げます。
すでにご覧になった方もいらっしゃいましょうが、昨年の秋から新しい事業として樹木葬型の合祀墓「はすのうてな」の募集を始めました。気が付くと、終活、墓じまい、直送などの造語が世間に広く深く流布するようなりました。無縁社会、格差社会などと表する世の有り様が、遠い世界のことではなく、身近な問題として感じられます。「はすのうてな」は、亡くなった家族や親族をお納めするお墓を持てずに困っている方々のために建立した墓所です。経済的負担をできるだけ少なくしながら、安心してお預けいただけるよう心がけております。時に孤独で寂しい社会の在り様を少しでも和らげるお手伝いができれば、ありがたいことです。
「はすのうてな」と名づけたのも、そこに埋葬された方々の来世の安穏を願ってのことです。「蓮の台」と書きます。「台」を「うてな」とは、なかなか読めないことから、平仮名にしました。
日本は仏教国でありながら、人々には仏教徒としての自覚が薄いと言われます。確かにその通りではありましょうが、私はあまり悲観していませんでした。なぜなら、生活の中に仏教的な考え方が深く根付いていると思うからです。たとえば日常会話の中にも「縁」「業」「無常」といった仏教の神髄を表す言葉がよく使われています。
とはいえ、最近では言葉遣いの変化が急速に進み、仏教から出た言葉を使う機会が減っているように思います。それはそのまま、生活の中の仏教が希薄化していることを示しているのかもしれません。
「蓮の台」という言葉もかつて、誰もが理解する仏教語の一つでした。もともとは、蓮の花を模した仏像の台座を意味しました。浅田次郎の短編小説「五郎治殿御始末」ではこんな使い方をしています。「砦のように鞏固な、そして蓮の台のように平安な曾祖父の膝の感触は…」と。幼い子が、ひいおじいさんの膝の上に抱かれたときに感じた何ともやさしく、安心感に満ちた心持ちを表現するためにこの言葉を用いているのです。蓮の花は仏の悟り、安らぎの象徴です。ほとんどの仏像は、蓮の花を模した台座の上にお座りになっているのです。
もうすぐお盆になります。お仏壇を掃除するときにお位牌をよく見てください。お位牌の場合もまた、ご先祖の法号が蓮の台の上にあることに気付くことでしょう。
ご先祖に成仏してほしい、安らかな来世を送ってほしいと願う気持ちから、蓮の花にお載せしているのだと思います。