ゆく河の流れ
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発行日: 2022年 09月10日
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季報: 秋 第107号 掲載
住職 及川玄一
コロナ禍の世にあって、私たちは様々な制約の中に暮らしている。今までは日常的でなかったことが、逆に当たり前になったように感じることもある。
警戒していた猛暑も峠を越したようだ。ここ数日は過ごしやすくなった。暦も一枚進み、秋の彼岸が近づいた。この季節になると、曼珠沙華が独特の花を咲かせる。地中で一体どんな準備をしていたのかと、毎年驚かされる。
彼岸は「彼」の岸。「彼」は遠くにあるもの、人を指す。彼岸に対して我々が暮らすこの世を此岸という。彼岸と此岸、あちらの岸とこちらの岸。岸辺であるから目の前には川が流れている。この世とあの世の間には川が流れているのだろうか。三途の川という語を連想するかもしれない。現世と来世を分かつ境界ということだろうか。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」。鴨長明作「方丈記」の有名な書き出しである。
眼前に川が静かに流れている。その流れにはなんの変りもなく、まったく同じような様子に見えるが、一瞬前に見た川の水と今の水は違うのだ。淀みを眺めれば泡が水面に現れ、しばらくすると消えてしまう。
川は時の流れのたとえだろう。うたかたは時の流れの中に姿を表す命(誕生)か。過去から未来へと続く時の流れの中に、縁を得て私たちはこの世に生まれてくる。そして、生まれたがゆえに死の時を迎える。
泡が消えるとは、死にたとえているのだと思うが、消えてなくなる、無になるということとは違うように思う。泡は消えて、もとの水に戻る。流れの中にかえり、再びその一部になるということだ。今というときの流れの中には過去の人々の命も含まれており、未来というときの流れには、消えてしまうはずの私たちの命も加わるのではなかろうか。
「方丈記」の短い一文に、日本人の根本を成す死生観が込められているように思う。