令和元年十一月 法華感話会法話
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発行日: 2019年 12月10日
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成子新聞: 第6号 掲載
令和元年11月20日 法華感話会 法話
住職 及川玄一
寒い中をお越しいただきありがとうございます。十月・十一月は日蓮宗にとって御会式月ですが、今年は九月以降、立て続けに大きな台風に見舞われました。当山では幸い十月八日に御会式を営むことができましたが、十二日の八王子本立寺の御会式は、台風十九号による風雨のため中止となりました。毎年大勢でにぎわう池上本門寺の万灯供養も中止になったそうです。
先日、本立寺で役員総代会と合わせてお祝いの席があり出かけてきました。そのお祝いの一つは、総代さんのお一人がなんと丸五十年、九十四歳になる方ですから人生の半分以上にわたり総代をしてくださったということで感謝をこめての食事会でした。
その総代さんは、織物の町八王子に生まれ機屋をされていて、奥様は耳鼻科のお医者様です。多趣味な方で野鳥に造詣が深く、ご自宅でもたくさんの鳥を飼っておられました。とても博識な方で、お経に伺うと縁側で政治、経済、美術、スポーツいろんなお話をお聞きしました。奥様が「お父さん、御前様はお忙しいんだから」と促してくださり、次のお宅に向かったことを思い出します。本立寺の住職を十九年務めましたので、八十回ほどは伺ったことになります。
その総代さんがご挨拶の中で、二つとても印象深いお話を聞かせてくれました。一つは、なぜ自分が総代を五十年も続けたのか。それは「お寺の手伝いをするというと、お袋がとても喜んだから」だったそうです。お寺に行ってくるというと、ニコニコして見送ってくれたというお母さん。その喜ぶ顔を見るのがうれしくてお寺の仕事を受けていたと仰いました。
もう一つ印象深かったのは、「僕らの時代は親に逆らえなかった。親父がこうしろと言ったら、はいわかりました、と。僕はやりたくありません、という答えはとてもできない時代だった」というお話です。
私は子供の頃、親をお父さんお母さんと呼んでいましたが、家によってはパパ、ママと呼ぶ子が出始めました。同時にその頃から、〝子は親に従う〟のではなくて、〝親は子に従う〟という風潮に徐々に切り替わってきたように思います。
女子プロゴルフの鈴木愛選手は、中学校まで出身地の徳島で過ごし、高校は鳥取の倉吉北高等学校に入学すると、家族全員で鳥取に引っ越し鈴木選手を支えました。父親は経営していた会社を閉じ、自分の仕事より子を優先しました。母親は鈴木選手の運転手を務めました。石川遼選手も、お父さんが大好きだったゴルフを辞めて、その費用を遼くんがゴルフをするための費用に回したそうです。野球界でもイチロー選手のお父さんが、イチロー選手が小中学生の頃から毎日バッティングセンターに連れて行っていたという話は有名です。
私の親は運動会一つ来たことありません(笑)どのような親子関係が良いのかはっきりは言えませんが、大正生まれの総代さんの時代と、昭和三十八年生まれの私の時代、そしてまた今の時代では様相がずいぶん変わりました。ただ、親が喜んでくれることをうれしく思う気持ちは昔も今も同じです。
先ほど本堂でお経をあげた中で名前の出た、常圓寺第三十六世佛子院日住(柴田一能)上人の娘が私の祖母にあたります。私が生まれた時にはすでに亡くなっていましたので会ったことはりませんが、同じ市立第三小学校を卒業したという共通点があります。
その小学校は古く江戸時代に始まりました。雷鳴堂という私塾を前身に、明治政府が発布した教育法令によって公立学校として衣替えをしました。明治三十年頃には高尾山薬王院の有喜講という講中が、高尾山の杉を寄付して校舎を建て替え有喜学校と名前が変わり、明治三十九年に市立尋常小学校となって、今の第三小学校につながります。祖母も歌っていたはずの、明治につくられた校歌を今でも覚えています。
東に多摩の水清く 西には富士を仰ぎつつ
桑都の花の丘高く 立てるはこれぞ我が校舎
楽しき校舎第三に 三つの力智徳体
磨き鍛えて日の本の 大国民といざならん
ここで学んで立派な国民になりなさい、という歌詞です。強い国民を作るという根底には「富国強兵」があったかもしれませんが、智育(知識を蓄える)、徳育(人格や道徳心を養い育てる)、体育(健全な体をつくる)の三つがとても大事で、第三小学校にいるうちにそれをよく身に着けて人としての礎をつくりなさい、ということが歌われています。
薩摩藩士で伊藤博文が初代総理大臣の時の文部大臣を務めた森有礼は、「それ教育の要たる、智育徳育体育の三者をして等しく発達せしむるにあり」と仰いました。教育の一番の要は智育、徳育、体育の三つを等しく同じように発達させることにある、まさに私の母校の校歌そのものです。当時は人生五十年で、小学校を出てすぐ働きに出る子がたくさんいました。小学校を終えるというのは世間に出るとイコールに近かったと思います。世間の荒波といいますが、世間はそうそう泳ぎやすい場所ではありません。逆に言えば泳ぎにくい。泳ぐには泳ぎ方、潮の流れを読む知力が必要ですし、もちろん体力がいります。世の中に出て困っている人や悪い人、いろんな人に出会ってしまった時に自分が悪い流れに流されないような道徳心、誘惑に負けないような徳の力も必要です。その一番大事なものを学ぶのが小学校教育の基本、ということだと思います。
「世間」はもともと仏教の言葉で、煩いごとや悩みが多い社会を指します。世間と同じような仏教の言葉に「娑婆」がありますが、これはインドの古いお経に出てくるサハーという言葉で、「耐え忍ぶ」「我慢する」ことを意味します。中国語に訳されたときに娑婆と漢字があてられました。
仏教では、煩わしいことや我慢しなければならないことが多いとされる「世間」。そういう世の中の見方を根本として、明治の人は智・徳・体の大切さを説いたのです。
以前、作家の曽野綾子さんが産経新聞にこのような文章を寄稿していました。
「私たちの生きる人生は、すべて平等と公平ではない。健康、体格、性格、生まれた家庭、所属する国家など、どの点をとっても平等でも公平でもないのだ。(中略)それなのに、完全な公平と平等が簡単に手に入ると思わせる甘い教育をして、その状態が実現しないと、それは政治の貧困や格差社会のゆえに救いようがないほど不幸なのだ、と教える方がずっと残酷だ、と私は思って生きてきた。私たちはしかし、その不平等や不公平に耐えて、自分だけに与えられた人生を生きられる。大病をした人や障害者になった人が、以前にも増して明確に独自の生涯を生きている例を、私たちはしばしば尊敬を込めて見るのである。不平等・不公平に耐えて、平等と公平を目指す強靭な魂の教育を始めないのは、日本人にとって本当は不幸なことだ。」(二〇〇八年四月二十五日付『小さな親切、大きなお世話』) 曽野さんが言っているように、大事なのは安易に公平・平等を求めるのではなく、不公平・不平等だということをきちんと踏まえ、その中でどうやったらそこを泳ぎきることができるのかを教え、泳ぎきれる人を作ることだと私も思います。
国であったり町、先生、親が、〝娑婆の実際をわきまえ、そこを生きていくには耐え忍ぶ力がなければいけないのだ〟ということを一番の根底に考えることができれば、必然的に進むべき方向は出てくるのではないでしょうか。仏教でいう世間や娑婆は非常につらい意味を持ちますが、それは仏教が素直に世の中を見たからです。そのことををきちんとわきまえて生きていかなければいけないのだと、厳しい冬を前にあらためて思うところです。