「歴史への敬意」
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発行日: 2023年 07月15日
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成子新聞: 第27号 掲載
令和5年6月20日 法華感話会 法話
「歴史への敬意」
住職 及川玄一
みなさんこんにちは。よくお参りを下さいました。気温がだいぶ上がってきましたが、時折吹く風が過ごしやすさを残してくれています。
今月十七日、身延山久遠寺への参拝旅行に四十六名の方がご参加下さいました。今年は日蓮聖人が身延山にお入りになられて七百五十年という記念の年にあたり、そのことを慶讃する大法要が営まれました。道中、大渋滞には見舞われましたが無事にお参りを済ませることができ、ご参加下さった皆さまにあらためてお礼を申し上げます。
宗門では七五〇という節目の数字が続いています。立教開宗七五〇年(平成十四年)、伊豆法難七五〇年(平成二十二年)、佐渡法難七五〇年(令和三年)、そして八年後にはご入滅七五〇年。時間が積み重なっていくことが歴史であり、そこに宗派としての重みを感じるわけですが、こうして皆さんという存在があって続いてきているのだということをあらためて感じさせていただいた旅行でもありました。
開山上人会
今日は感話会に合わせて開山上人会を営みました。開山とは山を開くと書きます。山は寺を意味します。「西新宿に山?」と思われるかもしれませんが、これは昔からの伝統で、寺には必ず「〇〇山」という山号が付けられます。開山上人とはその寺をはじめて開いた僧侶という意味です。
この寺は約四百三十年前、中道院日立という僧侶によって開かれました。しかし実のところ、日立上人に関していつどこでお生まれになられ、どのような経緯でこの寺を開かれたのか等、何もわかっていません。
日立上人が常圓寺を開いた年には二つの説があります。一つは天正十三年(一五八五)、もう一つは天正十八年(一五九〇)です。天正十八年は豊臣秀吉が徳川家康に関東への領地替えを命じた年です。それから十年後、家康が関ヶ原の戦いに勝って将軍となり江戸城を築き始めますから、この寺は江戸時代以前にこの場所に開かれたことになります。
ただし、前身となる寺が今の渋谷区幡ヶ谷にあり、その時代を含めるとずいぶん長い歴史を有することになりますが、不明なことが多いため寺の創立はこの土地に山が開かれたときからとされてきました。それが四百三十年ほど前のことです。
開山から今日まで四十人の住職が法燈を継承してきました。単純に四百三十を四十で割ってみると十一年ほどです。一人の僧侶が住職を務める期間としては短く感じませんか。
歴代住職のうち三十七名はすでにお亡くなりになっており、ご命日がわかっている方は三十人で、住職であってもご命日すらわからない方もいらっしゃいます。時代が今に近いほど正確な記録が残されていますが、明治以前のことになりますと、歴史に名を刻むような偉人でない限り、その人の業績を知ることは難しく、わずかな史実から推測することしかありません。
歴代住職と中村檀林
明治時代以前の僧侶は妻帯をせず独身でした。出家以前に子供をもった人はいましたが、基本的に子供はいません。ですから現在のような親子による世襲はなく、教えを継承する師弟の結びつきが強い時代でした。
特にその師弟関係を深めた場所が教学の研鑽をする檀林でした。日蓮宗には関東に五つの檀林がありましたが、皆さんもご存じの多古の日本寺にあった中村檀林はその中でも優秀とされる日蓮宗の僧侶育成機関でした。
常圓寺の歴代住職の特徴のひとつはこの寺の住職になる以前に、中村檀林で優秀な成績を修め、訓育の立場にまで登った人が多くいることです。
檀林では優れた先生に師事をして子弟の関係を築きます。また、そこに師を同じくする兄弟弟子の関係も生まれます。そういう法による縁がこの寺の人事にも大きな影響を与えていました。
残された記録の中に歴代住職の出生地をみてみますと、肥前、備前、備中、加賀、越中、若狭、下総、武蔵と広範囲で、そこに地域による結びつきは見えません。共通点は中村檀林を通じて結ばれた法の縁です。
栄枯盛衰の歴史
四三〇年の歴史の中で寺の中心である本堂が何度建て替えられたかご存知ですか?
残されている記録から数えるとこの本堂が四代目になります。初めて建立された本堂が今よりも大きかったのか、小さかったのか、記録は一切ありません。最初にお堂が建て替えられたのは開山から百七十年後の宝暦年間、九代将軍家重の頃です。再建したのは十九代住職である不染院日清上人でした。なぜ再建する必要が生じたのか、火事の多い時代でしたから消失も想像されますが、理由はわかりません。面責が五十二坪と記録されていますので、本堂としては小さなものでした。それでも同じ頃の資料に“常圓寺で花見をした”という文章が残っていますから、境内は庶民が集まる場所になっていたと想像できます。
記録の上ではその次に新しく本堂が建設されたのは昭和五年です。宝暦年間以降の江戸中後期、明治、大正時代の百八十年間は第二代の五二坪の本堂を中心に寺が続いてきたことになります。
開山上人以来、江戸時代を経て二十九代目精進院日解上人の時代に明治維新を迎えました。開山から二百八十年ほど経たころです。政治権力が変わり政府は「お寺は必要ない、神道一本で国をまとめる」という廃仏毀釈の方針を政策として打ち出しました。寺の存在意義が根底から否定される事態に仏教界全体が襲われたのです。
日解上人は時代の変化を敏感に察知して、英語を学び、西洋文化の吸収に率先して取り組む聡明な方でした。また、寺の裏地に一町六反の茶畑を作り、茶葉を売った資金で諸堂を整備し、私財を投じて青梅街道から大久保方面へ通じる道路を開通させるなど、寺の経済や近隣社会に貢献しました。
人々がまだ時計を持たない時代でしたから、時間の大切さを教えようと毎日午前十時と午後三時に寺の鐘を衝きました。近所に住む子供たちには鐘の音が聞こえたら寺に集まるように諭して、集まった子供たちに本堂の前でお題目を三遍唱えさせて、できた子には五厘のこずかいを上げたそうです。微笑ましい話です。もしかしたらその時にお題目を唱えた子供の一人が皆さんのご先祖かもしれません。
日解上人は寺を護ることだけではなく、学問をすること、社会情勢を正しく観ること、公共に資すること、子供を大切にすることなど、この寺の根本となる精神を根付かせた住職です。
日解上人が退かれて二十六年後、明治四十年、三十三世王子院日龍(及川真能)上人が入山されました。真能上人は宗門を牽引する力を備えた僧侶で内外に多くの業績を残されましたが、日解上人が残された精神をよく受け継ぎ、現在まで続いている財団を設立して奨学金を支給し、自らも多くの子弟を養いました。残念ながら昭和二十年五月に戦火に消失してしまった「東都一」と謳われた本堂も真能上人の時代に建立されたものです。今日の私たちの集まり、この法華感話会も真能上人によって始められました。
先師への感謝
開山上人会にちなみ寺の歴史について話しました。知り得ることが少なく、四百五十年余の歴史のほんのわずかな部分しか触れることができませんでした。歴史は人によって作られます。当山の歴史の詳細は残念ながら十分にわかりませんが、開山上人に始まり、歴代の住職、檀家、何十、何百、何千、何万という人々がこの寺に縁をもち、歴史の一部となって法燈を継承して下さったことは間違いないことです。それは今もこの寺が存続していることが証明しています。
この法華感話会が毎月二十日に開かれるのは開山上人のご命日が六月二十日であることによります。真能上人の開山上人に対する感謝の念をなくしてはいけないというこの会を作られた強い思いを感じます。一年に一度、開山会を営むことはせめてもの歴史への敬意であり、先人への最低限の感謝の表し方ではなかろうかと思うところです。長い話になってしまいました。ご聴聞、ありがとうございました。