「母への報告」
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発行日: 2024年 06月15日
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成子新聞: 第34号 掲載
令和6年5月20日 法華感話会 法話
「母への報告」
住職 及川玄一
みなさんこんにちは。昨夜からの雨が感話会に合わせるようにあがってくれました。肌寒い日もあれば、夏のように暑かったりと寒暖差の激しい日が続いています。
皆さんの中に普段薬をまったく飲んでいないという方はいらっしゃいますか。私は今まで薬を常用することがなかったのですが、最近、健康診断の結果を見た掛かり付け医の先生が血圧を下げる薬、コレステロールを減らす薬、腸を整える薬を処方してくれるようになり、毎食後服用するようになりました。まだ習慣になっていないので、ときどき飲むのを忘れてしまいますが。
この感話会で大切なことはお題目を唱えることです。お経を読む時間の方が長いのですが、どちらが大事かといえばお題目を唱えることです。日蓮聖人はお題目を唱えることの大切さを「薬」に喩えました。私たちは病を治したり、予防するために薬を服用します。薬の細かな化学的成分まで理解しているわけではありませんが、あまり疑うこともなく飲んでます。
日蓮聖人はお題目もまったく同じで、薬を服用するようにその効能を信じて、毎日唱えることが大切だというのです。
母の日
先週の日曜日は母の日でした。「亡き母のお墓まいりに行きました」、「仏壇に好きだった花をお供えしました」、あるいは母親である方は「普段は連絡のない息子が珍しく電話をくれました」などということもあったでしょうか。
もちろん日蓮聖人にも生まれ故郷の安房・小湊にご両親がいました。その父母に自身のお名前の「日」と「蓮」を捧げて、父親には「妙日」、母親には「妙蓮」という法号を授けられています。両親との縁の深さを尊んでのことです。
来週、千葉まで団参をしますが、聖人ご降誕の地・誕生寺、立教開宗の地・清澄寺に加えてご両親のお墓がある「妙蓮寺」をお参りする予定です。誰もがそうですが、両親の存在なくしてこの世に生まれることはありません。聖人にもご両親があり、誕生があって、この世に存在してくれたからこそ、今私たちがこうして手を合わせていただくことができているのです。
母の恩
毎朝のお勤めのときに読む『妙行日課』というご遺文集があります。この本なのですが、その中に「不思議の日蓮を産み出せし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり、父母となりその子となるも必ず宿習なり」(『寂日房御書』とあります。
「この世に生を受けることの不思議さの中に日蓮を産んだ私の父母は日本で一番のしあわせ者です。父母と子の関係には深い因縁があるものです」。そんな意味の言葉です。産まれることの不思議。親子関係の深い因縁。とても大切なことです。しかし、子供が親に向かって果報者というのはおかしくありませんか。普通は子供が親に「お父さん、お母さんの子供として生まれてくることができて幸せです」と感謝するわけですが、日蓮聖人の場合は親に私を産んだことが果報だと言っているのです。
おそらく法華経の行者となり、お題目を唱え、弘める自分への絶対的自信がそういう言葉を言わせたのだと私は受け止めます。おごりとは違います。信仰への確信とでもいえば良いでしょうか。だからこそ、薬を飲むようにお題目を唱えなさいとはっきり言い切ることもできるのです。日蓮という法華経の行者は不思議の因縁の中にこの二人の親から生まれ出ることができたという感謝の言葉です。
『妙行日課』には母への恩を出産の苦しみと育児の苦労を具体的に描写しながら語った文章もあります。
「母の御恩の事、殊に心肝に染て貴く覚え候。母の御恩忘れ難し。胎内九月の間の苦しみ腹は鼓をはれるが如く、頸は鍼を下たるが如し。気は出るより入事なく、色は枯たる草の如し、臥ば腹もさけぬべし、坐すれば五體やすからず。
是の如くして産も既に近付きて腰は破れてきれぬべく、眼は抜て天に昇るかと覚え、かかる敵を産落しなば、大地にも踏付け、腹をもさきて捨べきぞかし、さは無くて、我苦み忍びて急ぎ懐き上て、血をねぶり、不浄をすすぎて胸にかきつけ、懐きかかえて三箇年の間懇ろに養ふ」『刑部左衛門尉女房御返事』
私なりに現代語に訳します。
「母の恩は特別で、心と肝に染み込んでいます。そのご恩を忘れることはできません。胎内九ヶ月間の苦しみは、腹は鼓のようにパンパンになり、頸は鍼を吊るしたようで、伏せば腹は裂けてしまいそうになり、座ってもまったく安まりません。
そんな苦労を続けて出産の日がくると、腰は破れ、切られるようで、目玉は飛び出し、気を失いそうになります。これほどまでに私を苦しめた子供を出産したときは、床に踏みつけ、腹をさいて、捨ててしまおう、などと思うかといえば、そのようなことはありません。自身の辛さは我慢して急いで胸に抱き上げて、血を舐め、汚れを濯いで、大事に抱きかかえて三年の間大切に養います」。
また、どのように養うのかということも書かれていて、「養う母の乳の呑こと一百八十斛三升五合也」とあります。
三年の間に子に飲ませる「一百八十斛三升五合」の乳の量とはどれほどでしょうか。一斛は約百八十㍑です。一升が一・八㍑。一合を〇・一八㍑として計算しますと、三二四〇六・三㍑という数字になります。一日にすると三〇㍑の母乳を与えるということです。
この数字は大きすぎるように思いますが、三年間に莫大な量の母乳を与えることには違いがありません。まさに「母の御恩の事、殊に心肝に染て貴く覚え候」であります。
名前に託す親の願い
親の愛情の深さ、子の成長を願う思いは、私たちそれぞれの名前にも現れているようにも思います。たとえば私の祖母は「和子」という名前でした。私の世代まではよく見る名前です。「和」は平和に通じる文字です。そこには和やかな人生を送ってほしいという親の願いを感じます。
同じように静かで安らかな人生をと「静子」「安子」、幸多かれと「幸子」、竹のようにまっすぐ元気にと「竹子」など、どの名前にも親の情愛を感じます。
葬儀の一つの価値
最近思うようになったことですが、お葬儀を営む意義のひとつには亡くなられ方の親御さんへの報告という役割もあるのではないかということです。
長寿社会になり百歳まで長生きされる方も少なくない昨今ですが、どんなに長生きをされた方にも子供時代があり、親に育てられていた時期があったはずです。その間、親御さんは元気に育って欲しい、平和な世の中に暮らして欲しい、幸せになって欲しいと願いながら育ててくれたのです。
人生を全うし、この世の命を終えるとき、その事をいちばんに報告しなければならないのはご両親です。特に、十月十日も自分のお腹に抱え育んでくれた母親、毎日、昼も夜も乳を与え続けてくれたお母さんに無事に命を終えたことを報告し、あらためて感謝を伝えるべきときなのではと思います。
お母さんはきっと「お疲れさま」、「よく頑張ったね」、「また一緒に暮らせるね」とそんな言葉をかけてくれるはずです。親の情愛は深いものです。母親は子供がいくつになってもいつも心配しています。子への思いは自分が旅立った後も消えません。不思議の中に結ばれた親子の因縁は強く深いものです。