「仏さまの眼で見ると…」
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発行日: 2021年 05月14日
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成子新聞: 第12号 掲載
令和3年4月20日 法華感話会 法話
「仏さまの眼で見ると…」
住職 及川玄一
お参りくださいましてありがとうございます。お寺の新聞で〝緊急事態宣言が発令されていなければ感話会を開きます〟と広報しておりますが、「ぜひ来て下さい」とは口にしにくい状況が続いております。
皆さんにお会いする機会が少なくなってしまったこの数か月の間に、感話会とご縁のあった方との別れがありました。
今日も午前中このお堂でお葬儀がございましたが、ご家族と本当に近い親族十五名ほどでお送りしました。会食も憚られており、コロナ禍でお葬儀の形も変わりました。
表裏一体
先日、やはり家族葬でお送りした男性はとてもお風呂が好きな方でした。元銀行マンでまだ七十代でしたが数年前からがんを患い転移と治療を繰り返していたそうです。その方が退院すると奥様とお子様に「これからは毎日お風呂に行く」と宣言し、亡くなる一週間前まで近所の入浴施設に通ったそうです。
日本人には風呂好きが多いように思いますが、温泉に恵まれた土地柄であることもその一因でしょう。北は北海道から南は鹿児島までいたるところに温泉があります。しかし、それは日本の国土が火山列島といわれるほどに活火山が多いことも意味します。温泉に浸かる幸せな気分と、いつ地震に見舞われるかもしれない不安が同居しているのです。幸せと不幸が表と裏でひとつになっています。
綺麗好きな国民性
日本は清潔な国で、日本人は綺麗好きだといわれます。風呂好きな国民性とも関係しているように思いますが、元来どこまで清潔だったのでしょうか。これは私見ですが日本人が清潔な環境を好むのは歴史(繰り返し疫病に苦しめられた)に鍛えられながら備わった特質だと思います。
何度かこの会の法話でも触れたことですが、日蓮聖人はわずか六十年のご生涯で数多くの天災・疫病、そしてそれによって多くの人が苦しみ、亡くなっていく様子を目の当たりにされています。このことはたまたま聖人が生きた時代だけがそうだったのではなく、それ以前も以降も繰り返されました。
どうしたら疫病による被害をできるだけ小さなものに止めおくことができるだろうか、悲惨な経験を重ねる中で少しずつ防疫の手段が講じられ、人々の清潔を心がける習慣として身についたのだと思います。
疫病の歴史=風呂の歴史
風呂に浸かる習慣が一般の人々にまで広まったのは、江戸時代と言われています。今でいう銭湯の原点でしょうか。考えてみますと風呂というのはなかなか贅沢なものです。先日亡くなられた脚本家・橋田壽賀子さんの代表作であるNHK朝の連続テレビ小説「おしん」にも凍てつく雪の中でおしんが水汲みをする場面がありました。水道がない時代には浴槽に水を貯めるだけでも容易でありません。その上、お湯にするには沢山の薪が必要です。この寺でも私が小さい頃までは五右衛門風呂を薪で沸かしていました。それでも家に風呂があるというのは恵まれたことでした。
話が横道に逸れましたが、温泉と地震の関係が表裏一体であるように風呂、清潔に身を保とうとする習慣と疫病の流行も長い歴史の中で深く関わりあって今に繋がっているのです。
コロナも縁!
「関わる」「繋がる」ということは別の言い方をすると「ご縁」です。コロナとの縁に「ご」はつけたくありませんが、私たちがそれぞれにコロナ禍に直面しているのも「縁」です。縁は人と人との出会いだけを指すわけではありません。生まれた場所や時間なども縁の一種です。そのことに文句を言っても変えることはできません。今は世界規模で皆、好まないご縁を結ばされてしまっていますが、ご縁を結んだ以上は受け入れて何とかしなければなりません。
縁は結果を生み、その結果は次の結果につながる原因になります。ですから我々がいただいてしまった悪い縁も何か次に良いことが生まれる原因にしていかなければなりません。次世代にとって何らかの教訓を残すことも大切ですし、この経験で知らされた社会の脆さを自分たちの時代のうちに直すことも必要でしょう。
仏さまの眼
私たちの目はどうしても、自分の痛いところ怖いところにばかりにいきがちです。自己中心的というか…。一方で仏さまはとても広く世間を見渡します。宇宙、地球、自然界、世界、社会、人々、そして自分、その心の奥深くまでもです。
なぜなら世界は人間だけでなく動物や木々などの自然界、そして宇宙全体のバランスの上に成り立っているからです。ばい菌やウイルスもその中に含まれています。すべてが地球にとっては欠かせない構成要素なのです。疫病の流行のような事象に相対したときも人間だけを見ていたらその真理を見出すことはできません。それぞれがそれぞれに関わり合っているのですから。
私たちはこのお寺、日蓮聖人、法華経を通じて一直線に仏さまと深く結ばれています。だからこそ自分の目の中にも「仏さまのような眼」を持とう、持ちたいと願う心を養いたいものです。以前お話しした寺田寅彦がいった「正しく恐がる」ということにも通じるように思います。
ご静聴ありがとうございました。