「三人の女性の言葉から」
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発行日: 2022年 06月15日
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成子新聞: 第19号 掲載
令和4年5月20日 法華感話会 法話
「三人の女性の言葉から」
住職 及川玄一
お参り下さいましてありがとうございます。今、皆さんとお経を読んで、少し汗をかきました。気温が高いこともありますが、大きな声で一生懸命に読んだからかと思います。ある医師の話では、息をしながら体を動かす有酸素運動を三十分ほど続けると、体の中にたまったストレスが減るそうです。運動ではありませんが、掃除やお経を読むこともその一つに入ると思います。今日は三十一、二分のお経でした。ほんのり汗をかくぐらいお経を読むことは、ストレス軽減、心身へ良い影響を与えるということからもお勧めするところです。
妙顕寺開創七〇〇年
先日、前住職である周介上人が現在住職を務める京都・妙顕寺で開創七百年を祝う法要が営まれました。総代さん二名もご出席下さり、私も列席しました。
一口に七百年といいますが、とても長い歳月です。昨年は日蓮聖人がお生まれになって八百年でしたから、妙顕寺は日蓮聖人がご存命ならばば百歳の時に創建された寺ということになります。実際には満六十歳で亡くなられましたから、聖人没後四十年で建立された寺ということになります。
妙顕寺は本宗として京都での布教を最初に許可された寺院です。当時の後醍醐天皇から勅願寺(国家鎮護・皇室繁栄などを祈願する寺)として綸旨を賜わり、土地を拝領しました。建立したのは孫弟子の日像上人です。日蓮聖人が池上で臨終の床にあったとき、十三歳の日像が都である京都での布教を託されました。爾来、少年日像は師のご遺命を心に保ち続け、二十四歳のとき京都に向けて旅立ちました。勅願を得るまでの道程は決して安易なものではありませんでしたが、四十年の歳月を要して妙顕寺が創建されました。
爾来七百年、栄枯盛衰、歴史を振り返れば京都中の人々が法華に帰依した隆盛の時期、市中のすべての日蓮宗寺院が焼き払われて堺に難を逃れるという存亡の危機に晒された時代もありました。そんな浮き沈みもある中で今日まで法燈が継承されてきた不思議を思うと、究極的には妙顕寺という寺がその土地、人々にとってはなくてはならないもの、必要な存在であったという思いに至ります。
時の重みに耐えて残っているもの
私が好きな学者に竹内久美子という動物行動学研究家がいます。その竹内さんが数日前の産経新聞にこんなことを書いていました。
「自然にできあがってきた、古くて良いものに間違いはない。誰かが頭で考え、こうなったらよいではないかと思い描いた社会やルール、習慣は危険だ。それはまだ時の淘汰を経ていない。そんなあやふやなものに自分の命を任せるわけにはいかないではないか。けれども、いったいいつからあるかわからないほど古くから存在し、時の重みに耐えて残っているものなら大丈夫とみてよいはずだ。」
竹内さんの動物行動学を基礎とした社会や人に対する考察には共感することが多いのですが、ここで紹介した文章の「時の重みに耐えて残っているものなら大丈夫」という考えは、常々私も物事の良し悪しや必要性を考えるとき大切にしている見方です。
古くからあって今に続いているものなら、それが行事であれ、衣食であれ、必要とされていたから今にあるわけで、必要ないものは時間が経過する中に消えてしまいます。残っているものは必要であり、安心できるものなのです。
心配なき老後は幻想
本立寺の住職時代に書いていた法話ノートを見返していたら、その間から作家の曽野綾子さんが新聞に寄せたエッセーの切り抜きが出てきました。いつの新聞かがはっきりしないのですが、十年くらい前のものだと思います。曽野さんは昭和六年生まれの方ですから今は九十歳、もし十年前だとしたら八十歳くらいの時に書かれた文章です。紹介させて下さい。
「昔から〈うちのおばあちゃん〉の面倒は、うちで見てきたものだ。忙しい農家や商家のお嫁さんも、高校に通っている孫娘も、専門的な医学の知識などありはしない。面倒見も片手間でやってきた。それでも優しさがあれば、それが最大の介護だった。
老人の方も心がけが悪くなった。年を取っていささか預金があれば、たとえ健康でも、洗濯・掃除からご飯作りまで人にやってもらって、ホテル暮らしのような生活をする権利がある、と思うようになったのだ。
人間は、死ぬ日まで働くのが当然だ。餌を口に入れるために、である。野生の動物は自分で餌を採れなくなったら死ぬほかはない。その基本的な原理に合わない暮らしを計画している人の生き方は。どこかで破綻を招くだけでなく、健康で長寿という庶民の願いにも反する結果を招く。
一時のように年寄りの健康法として、塗り絵、音読、お遊戯のような〈子供扱いにした」無礼な方法は最近少し選択肢から遠のいたようでけっこうなことだ。今勧められているのは料理と旅行だという。
料理には2つのメリットがある。自立の精神と、他人のために食事を作るという与える姿勢である。壮年の条件は、たとえ何歳であろうと与えようとする姿勢を残していることである。それに料理には臨機応変で素早い総合的判断力が要るから、ぼけている暇はない。
旅行も心身の訓練としては有効だ。ただし切符は自分で保管し、どこで何という列車や飛行機に乗るかを自分で知っており、荷物も持てるだけを自分で管理する最低条件を満たさなければならない。
まだ50代、60代の管理職が、出張と言えば必ず秘書を連れて歩くことが当たり前になっている世間に、私は以前から驚いていたのである。
50代のころすでに講演先の地方に行くと〈今日はお一人ですか?〉と言われた。私は大変しょった想像をし、私が誰か秘密の人と出先で会う約束をしているのか心配してもらったのだ、と気を回した。ところが現実には、先方は私が秘書を連れてこなかったことに驚いていただけだった。
経済力があって老後他人の世話になりたくないという人ほど、高級な老人ホームを買って何一つ毎日の生活を心配しなくていいようにする。しかし料理をしなくてよくなったとたん。人間は現役から脱落する。人は毎日ぶつぶつ文句を言いながら暮らして普通なのだ。〈安心して暮らす〉などという状態は、現世にはないことを肝に銘じるべきなのだろう。」
人は毎日ぶつぶつ文句を言いながら暮らすのが普通で、安心して暮らすなどという状態は現世にはないとはっきりとおっしゃいます。文句の一つも出ない、すべてのことが思い通りになるような暮らしなど有り得ないと、つくづくなるほどと思いました。
楽しさだけを享受する人生などない
曽野さんよりまだ先輩になる、明治十一年生まれの与謝野晶子という歌人がいます。「みだれ髪」という歌集が有名ですが、十三人の子供を育て、六十三年余の人生を懸命に生きた女性です。その人が曽野さんと似たことを言っていますので、これも聞いて下さい。
「私は人の一生を、嫌な、穢い、矛盾だらけな、煩わしい、つまらないものだと思う。これが私の心の半ば。また、私の心の半分は面白い、懐かしい、浮き浮きする、飽くことを知らない趣のあるのが人生だと思う。この二つの心が常に闘っている。この矛盾がなかったら、恋も、涙も、歌も、芸術の楽しみも、子の愛も、私にはわからなかったでしょう。」
三十一、二歳の時に書いた文章だと思います。人生はなんて嫌なものだろう、汚らしく、矛盾も多い、煩わしいことばかりでつまらない。そんな思いが自分の心の半分を占めている。でも、そんなことばかりかと思うとそうでもなく、様々な出来事の半分のことはとても面白く、懐かしく思い返すこともできる。ウキウキするようなこともあり、興味が尽きず、味わい深いのが人生ですと。
二つの気持ちがいつも自分の心の中で闘っている。でも、良いことと悪いこと両方があるから、泣いたり、笑ったり、恋をしたり、歌を詠みたいと思ったり、子供がかわいいなと思ったりすることができる、人生とはそのようなものでしょうと。
二人は同じことを言っています。曽野さんは「ぶつぶつ言いながら暮らすのが普通で、安心して暮らすなどということは現世にはない」、与謝野さんは「人生は嫌、穢い、つまらないけれども半分は面白く、趣もある」と。
不満を受け入れ喜びの種に
「穢土といい浄土といい、土にふたつの隔て無し」
これは日蓮聖人のお言葉です。穢れた土と書いて「穢土」。娑婆とも言います。私たちが暮らすこの世界のことです。もう一方は、浄らかな土と書いて「浄土」。仏さまの世界のことです。
「境があってまったく別々な場所、違う世界であるかのように穢土といい、浄土というけれども、二つの世界は別の場所ではなく、同じところに共存している」という意味です。与謝野さん、曽野さんがおっしゃったことと意味は同じです。人生の実相ということです。
実相、世の中の在りようを正しく認識することはとても大切なことです。実際を知ることが正しい対処につながるからです。認識が間違っていると歯車が噛み合わず、いつまで経っても落ち着くことができません。
鎌倉時代に発せられた日蓮聖人の言葉、明治生まれの与謝野さん、昭和一桁生まれの曽野さんの言葉は、戦後生まれの竹内さんの言葉「時の重みに耐えて残っているものなら大丈夫とみてよいはず」という考え方が間違っていないのなら、安心して受け入れてよい言葉であるはずです。七百年以上の歳月を耐えて今に残っている言葉なのですから。